東京高等裁判所 昭和29年(う)609号 判決
被告人 岸本龜治
〔抄 録〕
一、論旨第一点について。
原判決挙示の証拠竝びに本件記録編綴の各書証を綜合すると本件係争の建物は、昭和二十四年五月頃、被告人がその内妻山本キヨのために新築してやり、同月二十三日同人名義に所有権保存登記をしておいたものであるところ、被告人は同年八月十五日岡部由松から金三十万円を、弁済期、昭和二十五年二月末日、利息年一割、元金を期日に支払わない時は、元金百円につき日歩金二十銭の損害金を支払う約定を以て借入れ、同年十月十八日、右債権を担保するため、所有権者山本キヨの同意を得て、(但し、同人は、債権額、債権者等具体的事情は一切知らず、本件建物の処分を被告人に委ねたものである)本件建物に第一順位の抵当権を設定したこと、被告人は右期限に債務の弁済をしなかつたので、昭和二十五年三月二十八日債権者から抵当権実行による競売の申立がなされ、競売手続が開始されたこと、被告人は債権者に交渉し、同年五月二十九日もしくは同年九月一日と指定された各競売期日をその都度延期してもらつていたが、その窮境を打開するため、前記山本キヨと相談の上、右建物を他へ売却しようと企て、清水吉五郎及び川島奴四郎両名の仲介により、同年十一月三日原判示のように、増尾隆治に対し前記抵当権設定の事実を秘し、右建物にはかかる瑕疵のないものと誤信させ、因つてこれをその敷地の借地権と共に金六十万円にて売渡すべき旨の契約を締結し、その代金の一部として、同人から即日金十万円、同年十一月十二日金十万円、同年十二月二十四日金二十万円合計金四十万円の交付を受けた事実を肯認するに十分である。
而して、建物の売買に当り、これに抵当権が設定してあるかどうかは、買主が売買の意思を決定したり、或は売買価格又は代金支払方法などを決定するについて重大な関係を有することがらである。まして、前認定のように当該売買の目的物件について、既に抵当権実行の手続が開始され、現にその競売手続が進行しているような場合にあつては売主は売買契約の締結に際し、買主に対して右の事実を告知すべき法律上の義務があるものと解すべきことは、信義誠実を旨とする取引上の原則に照し、まことに当然のことといわねばならない。従つて被告人が原判示のように、本件売買契約の締結に当り、右抵当権設定の事実を秘し、因つて、買主たる増尾隆治をかかる瑕疵のない建物であると誤信させて売買契約を締結させ、その代金として原判示金員の交付を受けた所為は、刑法第二百四十六条第一項所定の詐欺罪に該当することは明白である。
(一) 所論は「不動産の売主には、抵当権設定の事実を買主に告知すべき法律上の義務がないばかりでなく、被告人は右売買の立会人に過ぎず、売主ではないから、被告人にその告知義務はないと主張しているが、叙上認定のような事実関係の下にあつては、売主は、買主に対し、抵当権設定の事実を告知すべき法律上の義務の存することは、前に説示したところによつて明かである。不動産の買主を保護するため、民法上契約解除、代価弁済、滌除など各種の制度が設けられていることは、まことに所論の通りであるけれども、右は抵当権の存在を知つて、その不動産を買受けた者までも保護しようとするものであつて、これ等の制度を利用するには相当な費用と時間とを必要とし、しかも抵当不動産の第三取得者は、これによつて必ずしも完全に保護されるものではないから、売買の目的物に抵当権が設定されているかどうかは、買主にとつて売買の意思を決定するについて甚だ重大な関係を有しているものというべく、従つて民法上、所論のような諸制度が存在するという故を以て、逆に売主に抵当権決定に関する告知義務が存在しないということは、本末を顛倒した議論であり、これを採用することはできない。次に、本件売買の目的物件の所有権者は山本キヨであつて、契約証書の上では、本件売買の売主もまた同女となつていることは前認定の通りであるが、一件記録に徴すれば、同女と被告人とは内縁の夫婦であり、しかも右建物は、もともと被告人が同女に贈与したものである関係上、同女は被告人が右物件に前記抵当権を設定した場合に於ても、無条件にてこれに同意し、その権利証を被告人に交付してその処分に委ねたばかりでなく、本件売買の動機は、被告人自身の債務の弁済をすると共に、その事業の資金を獲得する目的の下になされたものであつて、その売買の折衝は、総て被告人に一任されて居り、事実上被告人自身の所有物を処分するのと殆ど異らなかつたことが明かである。従つて、被告人は右建物の所有権者ではなく、またその売買契約証書に売主として署名してはいないことは所論の通りであるけれども、該物件について処分権限を有する事実上の売主たる地位にあつたものであるから、被告人に叙上告知義務の存することは論を俟たないところである。
(二) 所論は、また「不動産の売買に於て、仲介業者が介在する場合に於ては、その仲介業者は、当然に抵当権設定の有無について調査すべき業務上の義務を有するものであるから、売主にはその告知義務はないものである。仮に然らずとしても売主は仲介人に対してこれを告知すれば足り、直接買主に対してまでも告知する義務はない」と主張している。不動産の買主は登記簿の閲覧その他適当な方法によつて、目的不動産の権利義務の関係を確認すべきことは望ましいことであり、また不動産仲介業者はかかる調査をなすべき営業上の義務があるものと認められるのであるが、買主や仲介業者の過失は、買主の蒙つた損害補償を目的とする売主の民事上の責任を決定するについて斟酌されることはあつても、売主たる者の道義的な刑事責任の消長には毫も影響するものではないといわねばならない。然るところ、一件記録に徴すると、被告人は前記抵当権設定の事実を買主たる増尾には勿論、仲介人たる清水川島の両名にも全然告知していないことが認められるから、本件取引について、仮に買主側に所論のような過失があり、或は仲介業者が介在していたからといつても、叙上の説示の理由により被告人の前記告知義務履行の責任は中断されるものではなく、従つて被告人に原判示告知義務違反の存することは明白である。
(三) 次に、被告人に詐欺の犯意がなかつたという所論について審究するに、本件売買代金の支払方法が分割払であり、被告人がその最後の支払分金二十万円の提供を受けた際、抵当権問題が未解決であることを理由に、その受領を拒んだ事実の存することは、まことに所論の通りであるが、本件売買の動機ならびにその契約成立の経緯は、前認定のような事情に基くばかりでなく、その後に於ても、被告人は原判示のように、増尾隆治から金四十万円を受領しながら、これを本件被担保債権の弁済に充当しなかつた為、遂に本件建物は飯倉某が競落してしまつたので、買主たる増尾はやむなく競落人に対しさらに金六十万円を支払つてようやくその所有権を取得した事実を肯認することができるのであつて、叙上認定のような本件売買成立に至るまでの経緯、ならびに爾後における被告人の行動等を彼此対照して考えると、被告人の原判示のように、当初から金員騙取の意思を有していたものと認めるの他なく、所論に徴しても、被告人に詐欺の意思がなかつたということはできない。
(四) さらに、もし、被告人に於て、買主たる増尾に対し、本件抵当権設定の事実を告知していたならば、同人は本件建物を買受けないが、或は仮に買受けるにしても、その代金額の決定又はその支払方法等について特段の考慮を払つたであろうということ、換言すれば、抵当権設定事実の不告知と、原判示金員授受との間には因果関係の存することは前認定によつてまことに明白であるから、これに反する所論は到底これを採用することができない。
以上を要するに、原判決には、所論のような審理不尽の違法はなく、事実誤認又は法令適用の誤りも存しない。論旨はいずれも理由がない。